バンガロール珍道中

ニューヨークに住んで二十余年、年に一度くらいは海外ツアーに出ているが、思い出深い旅といえばハーモニカ奏者ウィル・ギャリソンのインドツアーが筆頭ではないだろうか。但し、音楽的に、または紀行として興味深かったというよりは、単に失敗譚の連続で笑えるという意味で面白いのであるが。

ウィル・ギャリソン

この話の面白さを理解するにあたって、ウィル本人がいかに変わった人物であるかをまず知っておく必要があろう。ウィル・ギャリソンはカーリー・サイモン、チャカ・カーン、スティング、ジャコ・パストリアス、ジャッキー・バイヤードなどと共演歴があるハーモニカの名手であり、その演奏は映画「バグダッド・カフェ」のサントラでも聴くことが出来る。長らく巨匠トゥーツ・シールマンスの後継者と目されていたが残念なことに現在それに見あった名声を享受しているとは言い難い。短期間交際したシンガーソングライター、マデリン・ペルーを相手取って一億円の訴訟を起こしてみたり不動産詐欺にあった友人の不審な事故死が陰謀であるとニューヨーク州検察を告発したりと奇行ばかりが目立っている。スティングのソロツアーに誘われたときは、ロンドンでのリハーサルの最中にひとのカウベルを勝手に叩き出してヴィニー・カリウタの逆鱗に触れくびになったという。(但し、このエピソードにもかかわらずスティングとの共演自体は続いているようだ。)


デビュー当時のウィル・ギャリソン


お兄さんはハーバードの物理の教授であり、いいとこの出なのは間違いない。姉と共にアッパーウェストサイドに大きなアパートを持っていていかにも稼ぐ必要のなさ気な生活感のない暮らしをしている。優しいピュアな人柄なのだが精神的に不安定で、あるとき頼んだスープが来なかったという理由で仕事の最中につむじを曲げて家に帰ろうとしたことがあった。また、わたしが長年にわたってホストを勤めた深夜一時からのジャムセッションに遅刻したのは先にも後にも彼だけである。このように素行に問題の多いウィルなのだけど、演奏はため息が出るほど素晴らしい。世界一のジャズハーモニカ奏者であると未だに信じているのはわたしだけではあるまい。

出発まで

さて、そのウィルからインドツアーの話があるのだけどやらないかと誘われたのは二〇一五年の三月頃のこと。クラフトビールを供するバンガロールのジャズクラブで週末に二晩演奏するというものでギャラも悪くはない。ドラマーはすでに心当たりがあるというのだがいつも一緒にやっているエリックではないという。色んな人と仲違いしているためかウィルの連れてくるミュージシャンは玉石混交で、このドラマーがいまいちである可能性はかなり高い。ピアニストはまだ決めていないというので、自分は信頼するビリーをとにかく推しておいた。ビリーは譜面もバリバリ読めるリッチー・バイラーク張りのコンテンポラリーなスタイルの若手ピアニストで、自分のバンドをいつもやってもらっている。


こうしたツアーでクラブがビザ取得のための書類をわざわざ準備してくれることは稀なのだが、面子が固まったところで早速就労ビザの申請手続きを始めることになった。申請は領事館でなくCKGSなる出先機関が請け負っているのだが、サービスが非常に不親切で何度行ってもこの書類が足りない、あの書類は使えないと突っ返されてしまう。そんな中、書類に目を通していたウィルがギャラの額を勘違いしていたことに気付き、ツアーをキャンセルしたいと言い出して一騒動あった。結局は、滞在を伸ばし翌週の週末も演奏してくれるならウィルが期待していた額を支払うことが出来るとクラブから提案があったので続投することになったのであるが。ドラマーはさっさと諦めて観光ビザで入国すると決め込んでいたが、残る三人は三週間の苦闘の末にようやくビザを取得した。


リハーサルでそのドラマーと実際に顔を合わせたのは五月に入ってからである。名前はダレルと言って気さくで調子の良い人間だが演奏は期待外れであった。「スモーク」かどこかで歌伴をやっているそうだけど特徴のない演奏である。最悪だったのはバラードの最中に木魚(LPのプラスチック製カウベル)を叩き出したこと。リハーサルを終えて一緒に駅に向かう途中ビリーがインドに着いたらあの木魚隠した方がいいかもねと言って二人して笑った。


ダレルの木魚

旅の準備をするにあたり周りの人から貰ったアドバイスは生水、氷水、生野菜を避けること、予防接種を受けること、トイレットペーパーを持参することの三つである。用を足したいのに紙がない、紙を買おうにも店に置いていないという状況だけは避けたい。ビリーにそのことを話すと、自分はバンド全体のために一ダース持って行くという。彼の用意周到な性格と、率先してグループの役に立ちたいという気遣いが良く現れている。こうしてバタバタと準備をしているうちに先行きが若干不安なままはや出発の日になってしまった。

インドへ

インド行きは五月二十七日、JFK発の夕方の便である。時間にあまり几帳面でないにしては珍しくわたしは三時間前には既に空港に到着し、チェックインを済ませてゲートで皆を待っていた。そこにビリーからまだマンハッタンにいると若干憔悴気味のテキストが入る。タクシー代を浮かすためウィルのアパートで待ち合わせて一緒に来る手筈なのだが、ウィルは荷物もまとめておらず、かしてもケネディ暗殺の陰謀論の話に夢中になって取り付く島もないという。数時間が経過、いざ搭乗の時間になっても相変わらずバンドの姿はどこにもないが、ダレルはどうやら空港内にはいるらしい。予備で持参したエレキベースの収納場所を早めに確保したいので一足先に搭乗したところ、再びビリーからテキストが。何とかチェックインは済ませたのだけれどセキュリティチェックポイントが長蛇の列で間に合いそうもないと恰も泣きそうな声が聞こえてくるような文面である。幸いなことに出発が四十分ほど遅れたので二人とも間に合ったのであるが、よくよく考えてみると出発が遅れたこと自体、二人が遅刻したのが原因だったのかもしれない。


翌朝、ニューデリー空港に到着。入国審査はいつも緊張ものである。ツアーによっては観光で来たと嘘を付かねばならないこともあるし、ベネズエラのように機関銃を構えた兵士が待機していたり、ロシアのように誘導案内が不十分でどこに行けば良いのかすら分からないような空港もある。今回は就労ビザがあるとはいえあれだけ申請に手こずったものだから何か不備があってもおかしくはないと不安だったが結局何も言われることなく無事入国することが出来た。


ニューデリー空港の入国審査


単一民族国家の出身のわたしには想像も付かないがインドには何十種類もの言語があって、普通の人でも十種類くらいは扱えるのだそうである。もちろん英語も公用語の一つなのだけれど、現地人と実際に喋ってみるとアクセントが強過ぎて何を言っているのかさっぱり分からない。乗り継ぎのバンガロール行きの便を探さなければいけない我々の直面した問題はこの似非英語であった。チケットカウンターで書類を見せるのだが一向に話が通じないのである。二、三十分粘ったところどうやら先の便が遅れたせいで乗り継ぎの便を逃したらしいということが次第に分かって来たので、代わりの便はないかと聞くのだが明日まで便は一切ないの一点張りで鰾膠にべもない。喋り疲れた我々は一旦屋外に出てクラブに電話で助けを求めた。


初めて触れるインドの空気は蒸し暑くて南国であることを感じさせたが、とくにスパイシーな感じはなかった。(国中カレーの臭いがしているってことはないのだろうけれど。)今回のツアーの後援者の奥さんが高級ホテルチェーン「タージ・マハル」のマネージャーであった繋がりから、クラブが「タージ」の従業員をわざわざ空港まで遣わしてくれることになって、その人の仲介で何とかその日の便に乗れることになったのは幸いだった。


バンガロール空港でタラップを降りるビリーとウィル


夕方には着く筈だったバンガロールにやっと到着したのは夜半過ぎで皆クタクタである。手荷物を拾いに行くと、案の定ウィルとビリーのスーツケースだけが見当たらない。遅れてチェックインしたので違う便に積まれてしまったのであろう。居残ってスーツケースがどこにあるかを確認する元気ももはやなく、我々は紛失届けだけ出して迎えに来た世話係のルディと一緒にクラブに向かった。クラブは親会社の所有するゲート付きエステートコミュニティの敷地内にあって出演者はその中のコンドの一つをあてがわれるのだが、着いてみるとベッドルームが三つしかない。ビリーとダレルが殊勝にも僕たち若者はシェアするからと申し出てくれたので年寄り二人は個室を貰うことが出来た。


クラブの親会社所有のコンド

翌朝起きて明るい中で見渡してみると、昨晩は暗くて良く分からなかったのだがなかなかいい感じのコンドではないか。外にはプールもあるし冷蔵庫にはミネラルウォーター、ジュースもちゃんと補充してある。程なくルディがやって来て無線LAN、浄水器、洗濯機などの使い方を説明してくれ、次いで会場へ案内してくれた。そこで早速昼食を頂いたが、滞在中の食事に関しては好きなときにクラブに来て好きなものを頼んで良いと大変に気前が良い。苦労して到着した甲斐があったとビールで乾杯して喜んでいるところにウィル曰く、不幸にして機材と譜面が全て彼のスーツケースに入っていて手元にあるのはポケットに忍ばせていたハーモニカ一本だけなのだと。そんな訳で、サウンドチェックの後本番までは足りない譜面を書き起こす作業に追われることになってしまった。


ステージ


本番の出来がどうだったのかは良く憶えていない。ツアーの初日はこんなものだろう、と言った感じか。お客さんは楽しんだようで演奏のあともステージまで来て色々と喋りかけて来たが、BGMにオールマン・ブラザーズが掛かるなか客はドーシーバンドのファンであるなどと言っていて全体にその音楽的嗜好をどう捉えていいのかよく分からなかった。ルディに言わせるとジャズはインドではまだ新しいジャンルなのだそうである。

グリーンカード

初日の公演を何とか済ませてよく寝た翌朝、朝食のあと皆でコミュニティの外を歩いてみようということになった。警官に尋問された時にパスポートを提示できないと面倒なことになると誰かが言うので荷物の中からパスポートを取り出したところ、一緒に保管している筈のグリーンカードがない。鞄の中など探しても見当たらないのだけれど皆を待たせても何なので、不安ながら取り敢えず一緒に出掛ることにした。


バンガロールはインドのIT産業の拠点として近年発達が著しいらしい。ルディよると我々が滞在している地区はそうした企業が入って来るまではただのジャングルだったのだという。ゲートを出て通りを歩いて目に付いたのがココヤシ売り。椰子の実の先っぽを切ってストローを刺したものをそのまま売っている。椰子の木はそこら中に生えているし、水が悪いインドでは手軽な水分補給の方法なのだろう。問題は売ってる傍に積まれた殻の山である。確かに容器として考えたとき椰子の殻は中身に対して不釣り合いに大きいし、プラスチックと違い土に帰るものなのだからそのまま道端に捨て置きたくなる気持ちも分からないでもないのだが、山と積まれた椰子の殻が半分腐って甘い匂いを発しているのも何である。それだけならまだ良いのだけど、よく見るとココヤシ売りに混じってアイスクリーム売りもいて、人々は食べ終わったあと紙コップをそこら中に平気でポイ捨てしている。マナーの問題もさながら、公共事業としてのゴミ処理は一体どうなっているのだろう。


ココヤシのジューズ


公衆衛生の話といえば、インドの水が悪いのは実は下水が上水に混入しているからなのだとどこかで聞いた。考えただけでも気持ちの悪くなる話ではある。だが、大都市で各世帯にきちんと上下水道を引くのが言うほど簡単でないと言うことも一方では理解できる。十九世紀のパリですら汚水を通りに直接流していたとか、ロンドンで汚水溜めから井戸水を経由してコレラが発生した等の事例を思い起こすと、一昔前の人間の生活は現代人の想像を絶する汚なさであったのかもしれない。それを思えば、未だに公衆衛生の面で立ち遅れている国があってもとくに不思議ではない。蛇口をひねればいつでもきれいな飲水が得られ、トイレは流してしまえばその先を気にする必要が全くない恵まれた環境で生まれ育ってきたことを逆に有難いと思うべきなのだろうか。


そんな取り留めのないことを考えながら三十分ほど歩き廻ってコンドに帰って来たところでグリーンカード探しを再開したのだが、片っ端から荷物の中身を床に広げてみても一向に出て来る様子はない。持ち物を何度となく確認して見つかる可能性がないということが次第に明らかになるに連れて、焦り度合いが十倍ぐらいに跳ね上がって来るのが自分でもよく分かる。困った。本当に困った。財布、鍵、携帯のような大事なものでもすぐになくしてしまう自分ではあるけれど、なくしてはいけないものの筆頭であるグリーンカードを失うという失態はさすがに気持ちがへこむ。でもクヨクヨしていても仕方がないしどこかで落としたとなれば出てくる可能性はまずないだろうから、取り敢えずは心を落ち着けて「渡航先でグリーンカードをなくした時にどうすれば良いか」をネット上で検索してみることにした。


調べてみるとグリーンカードの再発行をアメリカ国外で申請することはどうも出来ないらしい。代わりに、再発行手続きを始めるための入国許可の手紙を入手しなくてはならないのだ。申請料は数百ドル程度なのだが、本国の移民局に照会するため一週間ほど時間がかかるのだそう。滞在延長は必至である。帰りの便を変更し、アメリカで入っている仕事をキャンセルすると千ドル以上の損失が出る。取り敢えずルディに連絡すると、コンドには必要なだけ滞在して構わないしその間の食事の面倒も見てくれるという。有難い話だが、その一方で我々と入れ違いで来ることになっているケン・ペプロスキーのバンドと宿を共にすることを想像するとかなり情けない。


そこまで調べたところで公演の時間となったのだが、グリーンカードのことが気になって演奏どころではなかった。「生きた心地がしない」にかなり近かった感じがする。演奏が終わりルディが、お客に領事館に知人のいる人がいると言って紹介してくれた。その人曰く、バンガロールにある領事館の出先機関は無人であり、ベンガル湾に面したチェンナイまで行かねばならない由。車で五時間近くの距離であるが、申請と受け取りのためそれを二回往復しなければいけない。ルディが「心配しないで。自分が運転して連れて行ってあげるから」と言ってくれて、わたしはその申し入れに非常に心打たれた。


こうして取り敢えず対策は立ったけれど、人に多大な迷惑かける前にこちらで出来ることは全てやっておくというのが礼儀であろう。パスポートは空港でしか取り出すことはないのだから、可能性が薄くとも空港の遺失物取扱所に一度は連絡してみるべきである。ニューデリー空港のウェブサイト上でその連絡先を探してみたところ、驚いたことにインドの混沌とした印象に反して遺失物を取り扱うページがちゃんと作ってあり、しかもリストを直接閲覧出来るようになっているという便利さである。恐る恐る二日前に遡ってリストを辿ってみる。発見物の中で現金と言うのが割にあるのだけど、それがどうも解せない。拾ったお金を正直に届け出る人がそんなにいるとはとても思えないのだが。かなりスクロールしたところで何と「ヨシノリ・ワキ名義のカード」というエントリを発見し、わたしは我にもなく興奮してしまった。クレジットカードと明示されてないとこからしてもグリーンカードであることは間違いない! 身体中の力が一気に抜けていく。これほどの安堵感を自分は今までに味わったことがあるだろうか。夜も遅いのだがルディに連絡を入れると無論喜んでくれて、「タージ」の従業員に取りに行って貰うよう頼もうかと訊くので、代理人が受け取れるかどうか分からないし郵送中に紛失しても困るから自分で直接取りに行くと伝えた。そうした不安が仮令たといなかったとしても、ここはどうしても自分で回収しに行きたい気分なのである。早速ニューデリー行の朝一の便を二日後に予約した。余裕を持って夕方の便で帰るので一日がかりである。


後援者ジャマル氏のシボレーを囲んでポーズを取る


後援者であるスレイマン・ジャマル氏の昼食会に呼ばれた翌日、朝五時半の便でわたしはニューデリーへ向かった。空港のスタッフにあれこれ訊ねてやっと見付けたメインの遺失物取扱所でリストを見せると職員のおやじに「ここにはない。国際ターミナルに別の取扱所があるからそっちを訪ねてみろ」と言われた。シャトルバスに乗って十分、もう一つの取扱所を探し出して再びリストを見せると、おばさんがちょっと待っててと言って奥に引っ込み、数分ほどで戻ってきて「これね」とカードを差し出してくれたのだが、これが某ヨシノリ名義のクレジットカード。「違う!」と言ってもう一度探してもらったのだが二十分ほどしてやはり見つからないとの事。グリーンカードが一体何なのかよく解っていないようでもある。ここに来て結局見つからないのではないかと不安がよぎったところにおばさん曰く「あなたが来るちょっと前に、数日分のバッチをメインの取扱所に送ったからその中に混じっているのかも」と。で仕方なくもう一度シャトルに乗って国内ターミナルに舞い戻る羽目になった。メインの取扱所に戻ると、さっきのおやじが事態を理解したのであろう、すぐに見付けて持って来てくれた。始末書にサインしてカードをようやく受け取ったのだが、着いてからもう二時間近く経っている。私はターミナルの外に出て一息付くことにした。野良犬がおこぼれにあずかろうと立ち食い中の旅行者を物欲しげに見上げている。


ニューデリー空港にて


始末書にはカードがどこで発見されたのかは書かれていなかったが、国際ターミナルで届け出られていたということは入国審査の際に失くしたということである。ということは、パスポートと一緒に提出したのを単に審査官が返してくれなかっただけなのかもしれない。というのもカードはパスポートのカバーのスリーヴに常に入れていたからである。就労ビザで入国できるかどうかに気を取られ過ぎていたのだろうか。


とまれ、カフェテリアでワインを頼んでグリーンカード回収を一人で祝い帰りの便までの時間をつぶした後、バンガロール空港にようやく戻ったのは九時過ぎ。拾ったタクシーの運転手は街灯もない舗装の悪い道路を暗闇のなか猛スピードで運転するのだが、どこに段差があるのかは大方覚えているらしい。それでも数ヶ所でスピードを落としそびれて爆音を立てていた。


コンドに着いて残りのメンバに一日どうしてたのか聞くと、みな妙に元気がない。タブラのレッスンを受けに行ったのだそうだけど、そのあとで飲んだマンゴラッシーに当たって全員腹をこわしたのだという。

観光

滞在も二週目に入ったが、取り敢えずバンドは週末まで演奏の予定はないしグリーンカードの件も解決したので、ルディが早速空港の近くの観光地ナンディヒルズまで行かないかとコンドを訪ねて来た。ウィルとダレルは乗り気だが生憎ビリーだけまだ具合が悪くて一緒に付いていく自信がないという。トイレを離れることが出来ないのであろう。可哀想なことではあるが、ビリーを残して我々は出掛けることにした。


ナンディヒルズとはバンガロール近郊にある丘のことで、見晴らしが良いことから要塞として古来防衛上の重要な拠点であったそうである。麓には九世紀に建立された石造のシヴァ寺院がある。境内など神聖な場所に入る際には靴を脱がねばならない。無数の石柱と、壁一面に施された精緻な彫刻が目を引く。洞穴のような小部屋に祀ってある神像の前にお布施の代わりに花びらを置くことになっているのがいかにも南国らしい。境内には猿が沢山いて気を付けないと荷物を盗もうとするのだという。また階段井戸-これはピラミッドを逆さにした形の四角形の貯水池なのだが-が併設されており、市民の涼みの場として、またかつては飲み水としても利用されてきたらしい。一頻り見て回り、帰りにジャマル氏の招待で安倍首相も滞在したと言う高級ホテル「タージ・ウエストエンド」に寄り食事した。ルディによればここならば生野菜を食べて良いという。ガーデンサラダがこんなに有難かったことは今までにないかもしれない。


ナンディーヒルズのシヴァ寺院にて


翌日やっと元気になったビリーと朝食を取っていると寝起きで髪もボサボサのウィルが憔悴しきった趣で部屋から出て来てスーツケースがまだ来ないとぶつくさ文句を言っている。到着時にウィルとビリーのスーツケースが見付からなかったことは既に述べたが、実はそれ以来一週間近く紛失したままなのである。二人は限られた衣類を洗濯しながら何とかやりくりしているし、ビリーのトイレットペーパーも結局徒労に終わった。スタッフの女の子に毎日空港に電話を掛けて貰っているのだけど、ある時はニューデリー空港の税関で引っ掛かっている、別な時にはチェンナイ空港にあるなど言うことが毎日違う。ガイドブックで読んだのだが、インドでは人から道を尋ねられたときなどに知らぬと答えるのが非常な失礼に当たるのだそうで、礼を失しないためにわざわざ嘘まで付くのだそうである。何ともはた迷惑な話であり、どこが礼を尽くしているのか全く理解に苦しむ。で、ウィルによく聞いてみると、実は抗うつ剤がスーツケースに入っており、薬なしではそろそろ気が狂いそうだなどと空恐ろしい事をつぶやいている。ルディに探してくれと頼んでみたらしいのだけど、処方箋が必要なので購入できないのは当たり前である。幸い念願のスーツケースはその翌日になってひょっこり届いたので、ウィルが狂人化するのは見ないで済んだ。


到着したスーツケース

ビリーだけ観光する機会が得られなかったのでは不公平なので、我々はルディに頼んで日を改めてもう一日観光することにした。今回の目的地は車で五時間くらい西に行ったところにある寺院二ヶ所。まずバンガロールの渋滞を抜けて郊外に出るのであるが、街中の渋滞がまた尋常でない。まず第一に信号機が殆ど見当たらない。昔訪ねたとき与論島には信号機が一機しかなかったと記憶しているが、バンガロールはインド第三の大都市である。スクーター(一台に三人くらい乗っていて、しかも誰もヘルメットをしていない)がうじゃうじゃと車の間を縫うように走っていて見ているだけで事故りそうで怖い。ニューヨーカーの運転も荒いけど比較にならないなと感心していて、ふとニューヨークのタクシーの運転手の多くがインド、パキスタン、バングラデシュの出身であることを思い出してなるほどと合点がいった。


最初に訪ねたのはハレビドゥにあるホイサレーシュワラ寺院。十二世紀に百年近くかけて建立されたシヴァ寺院で、ホイサラ様式といって星型の建物、過剰とも言える精緻な彫刻で埋め尽くされた壁面、ろくろを使用した重厚な石柱を特徴とする。日光東照宮の三猿のような見所を幾つか教えて貰って建物の壁面の夥しい彫刻を見て回ったのだが、かなりの時間を要した。


ホイサレーシュワラ寺院でくつろぐ


境内を出ると門前に土産を売っている人が陣取っているのだが、この人達のしつこさが何とも凄かった。昔ローマを訪ねたときにコロセウムの前で絵葉書売りに付きまとわれて閉口したことがあったけれど、インドの押売りはそんなレベルではない。ガネーシャの石像を一つ買うと周りの連中が「何であいつから買って自分からは買おうとしないんだ、不公平だ!」と言って全員でもって追いかけ回して来る。這々ほうほうの態で待たせておいたタクシーに乗り込んで寺を後にしたが、彼らにしてみればこんな石像が一つ売れただけでもそれで家族を一週間養うことが出来るのかもしれず、だとするとあのしつこさは生きるのに必死であることの裏返しということになり、若干淋しい気がしないでもなかった。


車で三十分ほどさらに西に行くとベルールなる町に黄色に塗られたゴープラム(正門)が遠くからも目立つチェナケシェヴァ寺院がある。やはりホイサラ様式の有名な寺であり、建物の印象は先のホイサレーシュワラ寺院と非常に似ていた。回廊の中に幾つかの建物が並んでいる様子は法隆寺など日本の寺の伽藍の配置にも通じるものがあった。ちょっとした夕立があり、涼しくなって気持ちが良い。


チェナケシェヴァ寺院の境内


帰る途中にジャイナ教の聖地シュラヴァナベルゴラにも立ち寄ったのだが時間切れで高さ十八メートルの有名な石像は見れないまま、夜十時過ぎにようやく帰宅。我々の数々の失態の面倒を辛抱強く見てくれた上、こうして丸一日付き合って案内を買って出てくれたルディには大いに感謝せねばなるまい。

終盤

難題続きの前半と比べてツアー後半は概して平穏に過ぎたと言える。スーツケースが届いて譜面と機材が揃ったので演奏は順調だったし、残りの時間は各々が土産の買い物など好きなことをして過ごした。それでもビリー、ダレルと三人で仕立屋を訪ねたときに一日雇ったタクシーの運転手が原因不明の理由で怒ってしまい途中で帰ってしまったとか、ダレルが地元の女の子とデートして深夜にコンドまで連れて来たと思いきや腹下しのため彼女をったかしてトイレに直行した挙句、治まらずに泣く泣く家に帰したなどちょっとしたハプニングがあったといえばあるのだが。


「タージ・ウエストエンド」で歓待を受ける


ジャマル氏の計らいによる「タージ・ウエストエンド」での追加公演をもってツアーは無事終了し、我々は最後の一日をプールサイドでのんびり過ごすことが出来た。ビリーに、この住環境で数ヶ月バンガロールで教える仕事があったとしたら引き受けるかと訊くと、満更でもなさそうである。わたしも同感であった。ウィルは彼女のメラニーに会いにフランスに直行する予定なので、帰国はビリー、ダレルの二人と一緒である。


公演を終えてリラックスするダレルとウィル


明けて八日、帰国の便はムンバイ経由の夜九時半の便である。インドに来たときの反省から、我々は出発時間の四時間も前に空港に着いたのだが、カウンターに行くと早過ぎると言われてしまった。ロビーで二時間暇を潰した末にやっとチェックインさせてくれたのだが、ここで問題が発生。グリーンカードの情報を入力するためのサーバが落ちているのでわたしの国際便のチケットだけが発券できないのだと言う。(アメリカに入国する外国人乗客はビザ情報をチェックイン時に予め入力しなければならない。)ムンバイ行のチケットはあるので取り敢えず向こうに着いて国際ターミナルで改めて発券手続きをしろと言うのであるが、接続待ちは二時間強で決して十分とは言えない。これだけ用意周到に行動しても結局時間に追われる羽目に陥ってしまったのはしやくだが、しかし他に何の手立てもなく従わざるを得ない。


ムンバイには予定を少し遅れて到着し、我々はシャトルで第二ターミナル向かった。十分ほどの距離だが、一早くチェックインしたいので気持ちがちょっとはやっている。昨年オープンしたという第二ターミナルは列柱から天蓋へ繋がる意匠が大変に美しいのだが、そんなことに気を取られている場合ではない。


ムンバイ空港第二ターミナル


チェックインカウンターをやっと見つけて事の次第を説明したが、受付のおやじは大変のんびりしている上に、グリーンカードが何であるのか全く理解していない。例の似非英語でのコミュニーケーションに苦しみながらもグリーンカードの情報を入力しないと発券できないというのを繰り返し説明しながら、わたしは客が係員にこんなこと説明しているってあり得ないよなと思わずにはいられなかった。おやじはインターホンで小時話していたが、処理するからここで待てと言う。わたしはビリーとダレルに先に行ったらと勧めたのだが、置いて行けないから一緒に待つと言う。同志として一緒に行動したいと言ってくれたのは嬉しかったが、実際に発券が間に合わなかった時のことを考えると道連れになって皆で便を逃すのは莫迦々々しい限りである。遭難した登山グループが怪我人を見捨てるのとは訳が違うのだから。


三十分待てど暮らせどおやじは何も言って来ず暇そうに手遊びなどしている。そのうち何と搭乗のアナウンスが聞こえてきたので、わたしは遂にかっときて思わず怒鳴りつけ始めた。すると、おやじは途端に卑下た表情になって端末に向かい出し、小時して問題なくチケットをプリントアウトした。何のことはない! 何が問題で何のために我々を待たせていたのかすら全く分からない。三人で慌ててセキュリティーチェックポイントに向かったが案の定長蛇の列を成している。ひょっとしたら間に合わないかもと言うシナリオが頭を掠めたのは三人とも同じであったろう。だが幸いにもゲートの職員がわたしたち三人を探しに来たので、列をすっ飛ばして搭乗することが出来た。我々が最後の搭乗客だったようだ。


朝八時前にニューアーク着。ダレルの彼女が空港まで迎えに来ていた。可愛らしい子である。地元の子と関係しようとしたことなぞ彼女は知る由もなく、ダレルも全く調子がいい。わたしとビリーはパストレインに乗ってマンハッタンに向かった。今回のツアーを振り返ってビリーはしばらくはインドには行きたくないと言ったが、几帳面で律儀な性格の彼にしてみればもつともな本音であろう。


今回のバンドは音楽的にまとまったグループではなかったので、ツアー後は各自それぞれの音楽活動に戻った感があるが、年が明けて二〇一六年、フランスから帰国し自宅でホームコンサートシリーズを催していたウィルの音頭でリユニオンコンサートが一度だけ実現した。今回は自分の楽器が使えるしピアノもグランドピアノだったので非常にやり易く音楽的なレベルでもこれまでで一番良かったのではないかと思う。可笑しかったのは、バラードを演奏していると例の木魚が聞こえて来たことである。聴きに来た友人に予告した通りであった。いつもだったら「また何弾いてるんだよ!」と頭に来るところなのだけど、わたしは何だが奇妙な懐かしさを憶えた。ビリーに目配せすると、彼も同感なようで二人で苦笑した。


(七月二十二日)


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